- HOME
- 2021年度修論要旨
修士課程2年 田村 実咲
修論題目:「北海道木彫り熊の「サイン」に関する研究
―札幌・旭川・昭和新山における制作・販売状況との関係から―」
本論文は、北海道木彫り熊の「サイン」について、制作・販売の歴史的経緯や現状と併せながら現場の認識を明らかにするとともに、北海道木彫り熊の「サイン」の特徴と性質を明らかにし、「サイン」の持つ多様性・多義性に注目しながら「サイン」の見方に関する考察を行うものである。
第1章では、北海道木彫り熊の発祥及び制作・販売の歴史的経緯を概観した。北海道木彫り熊制作の発祥及び拠点となった地域には、八雲と旭川の2ヵ所が挙げられる。八雲熊彫は、徳川農場が1923(大正12)年からスイスのペザントアートをモデルとした農村美術運動を展開するなかで組織的なデザイン考案、制作と品評が行われ、特産品として知られるようになり、戦後は個人作家が多く輩出された。アイヌの木彫り熊は、1926(大正15)年頃、熊猟師の松井梅太郎を始めとする旭川・近文アイヌの人々が木片から豚熊・鰐熊・鼠熊を制作し、次第に写実的な熊の彫刻へと造形表現の模索が行われ、アイヌの土産品として認識されるようになった。昭和初期及び戦後の高度経済成長期の北海道観光ブームに伴い、白老や阿寒をはじめとする観光地の土産品店で人気を博し、大量に流通した。北海道木彫り熊は様々な地域史とのつながりと多面性を持つモノである。
第2章では、北海道木彫り熊に関する研究の現状と課題を整理した。八雲熊彫研究とアイヌの木彫り熊研究では、制作・販売の起こりの違いから木彫り熊に対する価値付けや認識が異なっている現状があるため、どちらか一方の歴史的経緯や価値付けだけを参照して北海道木彫り熊を認識するのは適切でない。また、北海道木彫り熊の歴史の価値付けや解釈に関するこれまでの議論については、より全道的で多面的な視点から北海道木彫り熊の歴史に関する資料の収集や評価が試みられている。先行研究の課題としては、制作・販売の現場への視点の不足と資料情報の少なさが挙げられる。北海道木彫り熊の制作・販売が何を原因に衰退し、現状はどのようになっているのか、制作・販売の現場に注目する調査・研究は未だ少ない。また、現存する木彫り熊のなかで制作者や制作地、制作時期などの資料情報が確認できるものが少ないことは、北海道木彫り熊の調査・研究における根本的な課題である。北海道木彫り熊は、実物の足裏や台座に銘などが彫刻されていたりメーカーのシールが残っていたりする場合はあるが、そうした資料情報となりえるものが何も付されていないものが大半を占める。北海道木彫り熊のサインは、基本的な状況の把握や整理が未だ行われていないため鑑定や分析に役立てる指標がない状況である。
第3章では、札幌(2か所)・旭川・昭和新山の木彫土産品の小売店や職人を対象に行ったインタビュー調査の結果を述べた。地域ごとに制作・販売体制には特色があり、時代によって変化していた。木彫り熊をはじめとする木彫土産品が積極的に制作・販売される過程で、「サイン」が制作・販売の場で役割を持ったり求められたりするようになり、木彫り熊に「サイン」を入れる認識が広まったことが共通して聞かれた。「サイン」を入れる主体には、職人やメーカーなどの作り手、問屋や小売などの売り手だけでなく、購入者である買い手までもが含まれることが分かった。「サイン」の有無と使い分けについては、個人レベルの認識や立場の違い、制作・販売における現場の個々の状況やその場の判断などの場面性によるところが大きいことが聞かれた。「サイン」と真贋の関係については、北海道木彫り熊に「サイン」が入れられるようになったのは木彫り熊の誕生と同時ではないことや、木彫土産品全体が「サイン」はあまり入れられないものという認識があるため、木彫り熊も「サイン」の有無で作品の価値が決まるとは言えないことが聞かれた。近年では、北海道木彫り熊が再注目されていることにより、個人作家性に関心が集まり、職人の「サイン」が入っているものに商品価値や希少価値が高まっていることが分かった。
第4章では、北海道木彫り熊の「サイン」に関する基礎的検討を行った。北海道木彫り熊の「サイン」を入れる主体は作り手や売り手だけでなく買い手も含まれるという特徴がある。「サイン」を入れる主体や種類、付された情報からは、木彫り熊の制作・販売に携わった人々のつながりや制作・販売当時の状況に関する推察要素を見出すことができる。また、北海道木彫り熊の「サイン」には、制作・販売の現場における個々の状況やその場の判断、「サイン」自体の確からしさの問題といった場面性と不確定が関わっているという性質がある。「サイン」があるものが価値が高く、「サイン」がないものが価値が低いとは決して一概にはいえない状況がある。「サイン」は木彫り熊の制作・販売当時の状況を再現したり分析したりするための推察材料にはなりえるが、ただちに木彫り熊の真贋や価値付けに関わるものとはいえない。「サイン」が持つ特徴と性質、分析の際の問題点に留意しながら、文献資料や聞き取りによる情報収集や検討、造形表現や保存状態による評価や判断と併せて行われることが望ましい。